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理由。

書けば書くほど、言葉の意味は薄められ、話せば話すほど、それは真実から離れて行く。考えれば考えるほど、精神は疲弊し・・・もういいや、時間切れ。
Leica M5 + Summilux 35mm F1.4 (PRESTO)



ここでたまたま出会ったこの老人と話をしていたら、ウチの家系の本家の方の関係者らしく、30年前に死んだ祖母のことを知っていた。あの人の孫か、と言って、41歳にして頭を撫でられる。

もうすっかり縁は無くなってしまったけれど、間違いなくこの土地に、自分のルーツがある。
Leica M5 + Summilux 35mm F1.4 (TMY)



「ご一緒にどうですか?」
と、その店の主は言っていたけど。

冗談じゃない。
僕らはその時、それどころじゃなかったんだ。
Leica M5 + Canon 50mm F1.4 (TMY)



どうしてあそこでホテル・カリフォルニアだったのか、それは分からない。

冷たい雨が降る2月のある日、その真っ直ぐな道を歩いていたら、急にあの有名なイントロが流れてきて、それは僕の頭蓋の内側で延々とリピートされた。

中学生の時、英語の授業でこの曲の歌詞を訳すというのをやった。一つの言葉に二重、三重の意味を持たせた難解な歌詞ではあるけれど、きわめて有名な曲だから大まかなあらすじを知っている人も多いかも知れない。その中に、こんな一節が出てくる。

Her mind is Tiffany twisted
She's got the Mercedes bends
She's got a lot of pretty, pretty boys
That she calls friends

(Eagles "Hotel California" 1976)

「メルセデス」の正しい発音を知ったのはこの時だが、ジャニス・ジョプリンの名前を初めて聞いたのもこの時だった。

そう、その英語教師は、ここに出てくる「ベンツを手に入れた女」が、ジャニス・ジョプリンのことを指しているという解釈(*1)についても説明してくれたのだった。その話は、なぜか僕の記憶に残った。

それから月日が経過して、高校に入学した年の春のこと。

例によって友人の部屋でだらだらと過ごしていると、不意に窓の外で誰かが歌を唄い始めた。楽しそうに。高らかに。どこの誰だか知らないけれど、とんでもなく歌が上手いことに感心した。

(つづく)
Leica M5 + Summilux 35mm F1.4 (PRESTO)

(*1)
綴りを"bends"とすることによって違う意味にしてはいるけれど(スラングで「ドラッグでハイになる」の意味もある)、あのドイツ製自動車(Benz)ともとれるダブル・ミーニングであるのは明らか。故にここに出てくる「she」はジャニス・ジョプリンであるという解釈も間接的に成り立つ。ただしイーグルスのメンバーは誰もこれがジャニスのことだとは明言していないし、歌詞を書き、ヴォーカルもとっているドン・ヘンリーは「俺は絶対に"Benz"とは歌っていない」と、後のインタビューでも頑なに否定している。この曲の歌詞について解説したサイトは沢山あるので、参考にされると面白いと思います。



(前回からの続き)

それは英語の歌だった。唄い手の女性は、しわがれた声で「ベンツが欲しい」と神様に懇願していた。窓際に置かれたラジカセの中では、下手糞な字で「パール/ジャニス・ジョプリン」と書かれたカセットテープが回っていた。ああ、この曲のことか、と思った。

窓の外で誰かが唄っていると錯覚したのは、この曲が伴奏もコーラスもエフェクトも一切ない、一発録りの完全なアカペラだったからだ。(それが仮歌だけ録音したところで彼女が死んでしまったからだと知ったのは、ずっと後のことだ)

もちろんもう覚えていないけれど、もしかしたら僕はその場で、かつて英語教師から聞いたこの逸話を友人に教えてあげたかも知れない。イーグルスのレコードを引っ張り出して聴いたかも知れない。ギターを抱えてエンディングの掛け合いの真似事をしたかも知れない。

そして、笑い疲れて床にひっくり返り、ふと窓から見上げた空は、どこまでも高く、青かったに違いない。誰にとっても、15歳の春とはそういうものだ。
Leica M5 + Summilux 35mm F1.4 (PRESTO)

余談になるけれど、これを書くために改めて「ホテル・カリフォルニア」のクレジットを眺めていて、四半世紀の誤解が解けた。この曲でベースを弾いているのはティモシー・B.シュミットだとずっと思い込んでいたのだが、実はランディ・マイズナーだった。ティモシーがイーグルスに加入するのは、その後にリリースされた「ロング・ラン」から。ドン・フェルダーとジョー・ウォルシュのギターはもちろん、どこをとっても素晴らしいこの曲だが、聴きどころの一つは絶妙なベースラインでもある。

ちなみに、この曲はスタジオ盤よりも1980年に出たライブ盤(解散前のイーグルスとしては最後にリリースされたアルバム)の演奏の方が個人的には好きだ。



「写真を撮らせてください」

と声をかけたら、たっぷり5秒間ほど僕の顔を見つめ、にっこり笑って

「どうぞ」

とだけ言い、そしてまた水平線の彼方に目をやった。

一枚だけ写真を撮らせてもらって、

「どうもありがとうございました」

と言ったら、今度は何も言わずにただにっこり笑い、そしてまた水平線の彼方に目をやった。

こんな目をして遠くを見る年寄りになりたい。そんなことを考えていると、早く年をとらないかな、なんて思ったりもする。

---

これは、3月にやった写真展に展示した中の一枚だ。この写真を、展示する順番の最後に持ってくることは、かなり早いうちから決めていた。そして、上にある通りの文章を、マットの余白に2Bの鉛筆で書き込んだ。

まったく同じ仕様で額装までされたこの写真が、この世に2点ある。一つは展示した実物で、これは都内に。もう一つは後から制作したもので、こちらは山梨県に。

実はもう一つ作って、このおばあちゃんに届けたいのだが、どこの誰だかわからない。この海岸に近いところにお住まいの筈だから、そのあたりで写真を見せながら誰かに尋ねれば分かるだろうか。それとも、この写真を持って何日も海岸を彷徨い、再び会えるのをじっと待とうか。

正しいやり方は後者のような気がする。
Zenza BRONICA S2 + Nikkor 75mm F2.8 (TX)



次の一節はずいぶん前にも引用したことがある。

"感覚的" とか "感性" などという言葉を使って、かなり粗雑に、また無反省に事物との対応をくりかえしている傾向が、私たちの中にありますが、もう一度あらためて、写真の表現というものについて、またその裏側にひそんでいる感覚と論理との相互関連についても、考え直す必要を感じます。
(長野重一 「ドキュメンタリーとは」 1977)


例えば自分が撮った千点の写真の中から二十点を選ぶという時、五十点までは楽に選ぶことが出来る。ところが、それを二十点に絞り込む作業は困難を極める。

選ぶことが出来ないというのは、つまり後はどれを選んでも同じということだから、そこから先の取捨選択を誰かに代わってやってもらうというアイディアは、当然浮かぶ。僕はしばしばそれを妻にお願いする。それはもちろん、妻が写真については完璧な素人だからだ。

妻は写真の束を手に取ると、それをもの凄い勢いで二つに振り分けていく。まるでこれからトランプゲームでも始めるみたいに。どちらかが彼女的にOKで、どちらかがNGなのは分かるのだけど、どっちがどっちなのかは分からない。とにかく僕は、その作業を多少ドキドキしながら見守る。

やがてある写真のところで手を止め、しばらくそれを眺めてからこう訊くのだ。

「ねぇ、この写真のどこがいいのか、説明してみて」

昔、まだ古田が並のキャッチャーだった頃。野村監督は毎試合後、古田だけを球場に残してスコアブックを見ながら説明させたんだそうだ。「どうしてそこでその球を要求したのか」を。その日の全ての配球について、一球、一球。

彼女もまた、「どうしてそこでシャッターを切ったのか」を僕に説明させているわけだ。妻は、当然のように僕がそれを説明できると思って訊いている。何故なら、すべてのアクション(=シャッターを切る)には一つ一つ必然がある筈で、それを正確に説明出来るのはこの世でたった一人、僕だけだから。

ここで仮にこう答えたとする。いや、「仮に」ではない。実際に僕は、こうとしか答えられなかった。

「いやぁ、なんとなく面白いんじゃないかと思って」

自分がそこでシャッターを切った理由が、つまり写真に託した思いが(と言うほど大袈裟なものでは無いにせよ)「なんとなく」であるならば、それを見た人間の感想も「なんとなく」止まりだ。あらゆるコミュニケーションは等価で伝わらないから、実際にはそれ以下だろう。

そういう写真を見て、「いやぁ、スゲーいいッスねぇ、ビンビン来ましたよ〜」的なことを言ってくれる人が居たとしても、それはタナボタ的オマケであって、撮る側が最初からその手のオマケを期待するのは間違っているし、そんな心配をする以前に、きっとそれはお世辞だ。

この一年ほど自分の写真を省みて、自分はもっともっと考えて写真を撮らなければならない、という思いに至った。と言っても、それは構図や露出の決定に時間をかけるというような意味ではもちろん無い。「考える」という言葉が適切じゃなければ、「意志をもって」とか、「必然を感じながら」とか、そういう言葉に置き換えてもいい。

真に芸術的なるものは、必ず論理的なり。

これは夏目漱石の言葉。
Leica M5 + Summilux 35mm F1.4 (TMY)



あまり足繁く写真展に通ったりする方ではないし、お気に入りの写真家がそんなに沢山いるわけでもない。誰でも知っている写真家をここで「森山大道ってすげーよ!」みたいに言ったところで、んなこたぁみんな分かってるし(実際にはみんなが口を揃えて言うほどには好きではないんだけど)、どうせ話題にするなら、普段名前を聞かない写真家を紹介した方が話題としては面白い上に、自分も満たされる。

ずいぶん前のことだけど、ダンボール一箱ぶんの写真集を譲り受けたことがあった。手元に来てからすぐにパラパラと中身を見て、要るものと要らないものに分別した。譲ってくれた人の趣味なんだから僕が不平を言う筋合いなどハナから無いし、むしろ譲ってくれたご厚意に素直に感謝しつつも、結果的に殆どのものは捨てた。数少ない残ったものも、「まぁ、そのうちゆっくり見よう」ぐらいの感じで長いこと放っておいた。

つい最近、それを改めて見ていたら、中に腰が抜けるほど感動する写真集があった。写真集のタイトルは「The Edge of Time」、写真家の名前はMariana Yampolskyという。見返しにあるポートレートはかなりのお婆ちゃんに見えるし、調べてみたらやはり数年前に亡くなっていた。ロケーションはメキシコの辺境の町。そこに暮らす人々を、寄らず、離れず、ひねらず、アイロニーも風刺も告発もなければ、ユーモアすらもない、ただひたすら素直な視線で撮った、本当に美しいモノクロの写真たち。

写真からジェンダーを語るつもりなどまったくないけれど、この眼差しは女性ならではのものなんだろうなあとは、写真を撮る男として思う。

好みと趣味の問題だから不用意にお勧めすることは敢えてしないけれど、Amazonで注文できるよ、とだけ言っておきます。
Leica M5 + Summilux 35mm F1.4 (PRESTO)



「さようなら」

と口では言ってみたものの、6月25日になって初めて、僕は君と別れたことを実感するんだろうな。

いや、友人に譲ったエルマー3.5cmの代金がその日に振り込まれるというだけの話なんだけど。
Leica M5 + Elmar 3.5cm F3.5 (TX)



幸せも、希望も、安らぎも。
燦燦と輝く太陽のことではない。
暗夜を照らす灯のことをいう。
Leica M4-P + Summilux 35mm F1.4 (TMY)


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