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1946年のエルマー (3)

工学メーカーというのは即ち戦時下では軍需産業だから、ウェツラーのような片田舎にも爆撃機はやってきた。工場の建屋は奇跡的に破壊を免れたとあるけれど、工場さえあればすぐにモノが作れるってワケじゃないだろう。それでも1945年、つまり終戦の年にライツ社が生産したレンズ全体の生産数は6,001本(*1)。前年の生産実績を見れば、殆どはドイツが降伏した5月8日から年末までの、わずか8ヶ月足らずの間に準備を整えて生産されたんだと思う。

ライツ社の早期復興には占領国の意向がかなり働いた。そうは言っても1945年のドイツだぞ。ベルリンも、フランクフルトも、ドレスデンも、ハンブルクも、ケルンも、みんな破壊し尽くされて完全な廃墟になっていた時だ。

そして問題の1946年には、実に32,000本ものレンズが生産され(*2)、そのうちの6,134本が僕が探していたエルマー50mmだ。戦火をくぐっていないから比較的残っているんじゃないかとは思うけれど、作られてから62年という歳月を経た今、いったい何本が現存しているのかは推して知るべし。

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(*1)、(*2)
いずれもその年に割り振られたシリアルのレンジから算出。
Leica IIIb + Elmar 5cm F3.5 (TMY-2)



1946年のエルマー (4)

長い戦争がやっと終わって、再び平和が訪れた幸せを噛み締めながら、ライツ社の工員たちはカメラを組み立てたり、レンズを磨いていたのだと思う。

しかし1946年の終わりの時点で、ライツ社の旧従業員のうち300名以上がまだ捕虜収容所に抑留されていて、400名以上が戦争で死んだと、記録にある。(*1)

僕が探していたエルマーは、そういう時代に作られた。

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(*1)
出典:Emil G. Keller著 竹田正一郎訳 「ライカ物語」
Leica IIIb + Elmar 5cm F3.5 (TX)



1946年のエルマー (5)

レンズをあれこれ買い漁っている人はよくご存知のように、「使うレンズの性能」と「出来上がった写真の良し悪し」の間には、これといった相関関係はない。ましてや、レンズが作られた年代や本数なんかとは完全に無関係だ。

しかしそれとはまったく別のところで、今こうして呑気に写真など撮っていられる幸せを考えた時、この軽くて小さい、笑っちゃうほどチャチな作りのレンズが、僕の手の中で少しだけ重みを増すようにも感じられるのであります。

(完)
Leica IIIb + Elmar 5cm F3.5 (TX)



自分の撮る写真、もう少し正確に言うと、「自分と写真のあり方」に対する漫然とした不満は常にあったし、「イチからやり直し」への憧れのようなものもあった。

だから僕は、ルーレットを思い切り回した。ちょうど7ヶ月前の夜のことだ。

予想外だったのは、ルーレットが思いのほか長く回り続けたことだ。いつまで経っても、一向に止まる気配は無かった。

まあ、いい。ルーレットの中の白い玉は、いずれどこかのスロットに収まるだろう。どのスロットに収まるにせよ、その可能性はすべて同じだ。

すべての可能性が同じようにある。

これは実に悲しい事実だ。そこには一切の救いがない。

回るルーレットの上で不規則に跳ねていた白い玉は、いつの間にかどこかのスロットに自分の居場所を見つけたようだ。ルーレットの回転が止まるのを待って、その数字を確かめる必要はない。とにかく勝負はついた。
Leica M5 + Elmar 3.5cm F3.5 (TX)



今夜の寝台列車で、ちょっと島根まで。

だが島根には何の用事も無い。強いて言えば、「片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず」というところだが、芭蕉と違うのは、方角と、俳句を詠む代わりに写真を撮る点だ。出雲市駅のプラットフォームに降り立ってから先のことは何も決めてない。

いや、一つだけあった。島根で写真展をやる。ただし会場は未定。一時間に一本しかないバス停に、乗ったローカル列車の窓ガラスに、泊まった民宿の古い柱に、勝手に僕の写真をテープで留め、そして(ここが大事なんだが)急いで立ち去る。

これは、ある人が僕にこっそり教えてくれたアイデア。さすが、僕が喜んでやりそうなことをよく知っていらっしゃる。

そうだ、裏には出会った人やモノへの感謝の言葉を書こう。その写真がどうなるのかは知らない。放ったらかしにされて、いつしか朽ち果ててくれたら嬉しい。
Leica M5 + Elmar 3.5cm F3.5 (TX)



10月26日

どうして島根なのか?その理由は簡単だ。乗ると決めた寝台列車の行き先が島根だった。ただそれだけ。

日付が変わる1時間半ほど前、会社の窓から外を見ると、目の前をこの列車が通る。いつかあれに乗ってやろうと、ずっと思っていた。

B寝台の個室は思ったほど狭くもなく、清潔で、とても快適だった。よく眠れそうな気はしたが、自分の会社の前を通るまでは我慢することにした。

いよいよという時、ちょっとした仕返しの気分で目を凝らしてみたが、会社の窓は真っ暗だった。

そうか、日曜の夜か。
Leica M5 + Elmar 3.5cm F3.5 (TX)



10月27日

東京駅から出雲市駅まで、たっぷり12時間。

改札を出て、売店で出雲の地図を買う。ベンチに座って地図を広げ、これからどうするかを考える。まずは一畑電車というローカル線に乗ってみよう。

40分待って、やっと列車が来た。

殆どは無人駅らしい。数少ない有人駅のひとつ、雲州平田という駅で何人か下車し、つられて降りる。駅前にバス停があり(というか、駅前にはバス停しかない)、それを見ると、いくつかの路線がここで停まるようだ。階段に腰掛けていたおばあちゃんに、「この中で、どこかの漁港に行くバスはありますか?」と聞いたら、「これがそうだね」と指さしてくれた。

行き先には「小伊津」とあった。
Leica M5 + Elmar 5cm F3.5 (TX)



小伊津。

何故か自分がここにたどり着いたことの不思議。

とりあえず、お邪魔します。
Olympus OM-1 + Zuiko 28mm F2.8 (TX)



そもそも昼間の漁港はそういうものだけど、ここも人の姿がない。視界に動くものが無い。ただし、家々の閉ざされた窓の奥から、僕の動きを注視している気配はする。

出雲市が2008年10月31日に発表した統計によれば、小伊津町の人口は192世帯、584人。

それに、猫が少なくとも1匹。
Olympus OM-1 + Zuiko 28mm F2.8 (TX)



この辺りの海沿いはどこもそうだろうが、小伊津もまた、山の斜面がそのまま海に没する地形をしていて、その斜面に貼りつくようにして家々が建ち並んでいる。

遥か上を通る県道から、集落の背後を回り込むようにして港に下りる一本道がある。これが唯一車が通れる道で、集落の中には道と呼べるようなものは存在しない。細い階段が無計画に、無秩序に、無数に張り巡らされていて、それをひたすら上り下りすることが、集落の中における移動手段の全てである。

本当に小さな集落ではあるけれど、しばしここでの迷子を楽しむ。

そしてこの地区を担当する郵便、宅配、新聞配達の苦労を偲ぶ。
Leica M5 + Elmar 3.5cm F3.5 (TX)


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